ぶらくり丁は商店街として開発されて以来、今年で170年を迎え、全国的にも「伝統と歴史」のある商店街として有名です。
江戸時代・文政13年(西暦1830年)に丁内の匠町から出火した大火は、一帯を焼け野原にしてしまいました。火災に遭うまでこの通りは北横町と呼ばれ、黒田や出水あたりから、本町・万町まで通じる主要な路として利用されていました。しかし、その道幅は2メートル弱の不便な道であったため、当時一流の文化人で経済人だった和田正主(まさもて)が、町奉行所に上申し、以前の2倍の道幅にする許可を得て、実現したのがぶらくり丁の始まりです。
新しくなった道幅の両側には家屋が建ち並び、南側には干物・塩魚等の食料品店、北側には侍屋敷の下男向きの股引・脚半・半纏等の衣料品の店が軒を連ね、当時これらの店では商品を軒先から店内一杯に、“ぶらさげて飾っていた”ので、誰言うとなくぶらくり丁と呼ばれるようになったようです。 (一説)
このようにぶらくりは、和歌山の方言によって付けられた、全国でも珍しい丁名で当時の人々がいかにぶらくり丁を愛し、親しんでいたかが伺えます。
その後、第二次世界大戦によってぶらくり丁も空襲にあい、再び焼け野原になってしまいましたが、戦後昭和22年にいち早く先人達の努力により、ぶらくり丁商店街として復興し、和歌山県下最大の繁華街として発展し、現在に至っています。
(写真:昔の丸正百貨店) |